美術の動向を見るのが展評の役割なのかと思うが動向などは皆無に近い。昔は大変な気負いがあって、作品もつねに歴史的な規範を対象とし、個人の表現論と対峙しなければそれは作品として成立しないなんて考えていた。しかし、それも単に正系と異端の美術史のあやしげな動向に、ただ気を吐いたにすぎなかった。戦後の美術史の動向も、日本社会の流動性とあいまって、つねにいろいろな動向がある。たとえぱ『美術手帖』史観なるもの。あるいはXX批評家史観なるものか。そしてそれが、芸術論のない、すぐれて表現論の時代だといわれている、戦後美術の動向でもあるようだ。だが読者には、それも一興なのかもしれない。
 伊藤 正の個展は、その独自性においてひとり気を吐く作品展だった。以前の流木を使用した異形の神々のごときインスタレーションと違い、物の存在の重さを、関係の絶体性というべき表現の変化として見せてくれる。画廊空間を遮断するように、左右にくぎられた空間のあいだを赤い糸が走る。螢光燈の照明が、あらかじめきめられた狭間を浮かびあがらせる。階下から入った人たちは、向きあう照明の間に、赤い糸の交差する世界に出合う。ここでは、物の遠さとか隔たりは、この作品の手元にたつ存在者に許容する場としてある。さらに、階上にて、作品に向きあうことによって間隔は眼前に拡がり、赤い糸の交差する地平へと存在者、観る者へ関心を向けるものとして配慮される。ここには作者の意志がつねに〈ここ〉から〈そこ〉ヘと等間隔に語りつがれるようにつくられている。方法的に見るかぎり、この作品展がきわめて、良質のここちよさをもった作品展であることは、わかるであろう。やや皮肉っぽくいえば、流行しないニヒリズムすら感じるのだ。それは同時代とかいう感受性かもしれない。

鈴木 敏春