伊藤正が発表した作品に「自己認識不可能装置」というものがある。7メートル余りの2枚のパネルに挟まれた一人だけ入る通路空間の両端に、1台ずつ、モニターTVが据え付けられている。そこに入ると、どちらのテレビにも自分の姿が映るのだが、後ろ姿しか映らない。同時に両方は見ることはできず、片方正面のモニターに近づけば小さくなっていく背中の自己像が映る。振り返れぱまたもう一方のTVモニターに、同じことが起きるという、何とも、もどかしい感覚を味わうことになる。
ここ数年、彼は映像という現実の中に、人間の存在を認識的にとらえることをテーマとしている。しかもその像は、バーチャルというよりは、リアルタイムでモニターに写し出される、もう一つの現実演出でもある。
「自己認識」や「現在」という言葉をテーマ設定して観客に問いかけながら、モニターに一つの現象を映像化し、その意識(自己や現在)の拠所を、生身の自己との関係性の中で知覚させようという試みである。像が、目の前でかげろうのように遠ざかったり、得体の知れないあいまいな像に変化したり、鏡のように正対しながら、自分の正面ではなく背中しか見ることができないというような、こちらの意識を裏切る現象の現実化なのだ。
そこで観客は、自身の知覚や認識が揺さぶられ、自分の眼を疑い、実体である自分と映し出された像との知覚葛藤が生じることによる、自己の2重感覚や分裂感覚を味わうこととなる。
現在欧米など、国際的展覧会においては、インスタレーションと並んで、モニターやビデオをつかった映像的作品が、主流な現象である。こうした背景に、私たちの人間生活が、TV情報の交流と拡大にともなって、バーチャル的世界が、第2の現実世界になっていることがある。
日本でもバーチャルの世界が現実以上のリアルさをもって人間の心のなかに(脳の中に)入り込んでいることを、あの「神戸児童殺傷事件」や「宮崎勤幼女連続殺人事件」などが、あらためて戦慄をもって教えてくれた。特に、20歳以下の知的にも現実体験においても未成年の者にはその影響は無視できないほど大きく、仮想が現実になり、現実が仮想になっていくということが、当たり前の意識環境になっている。
日常においても、私たちの行動様式は、かっての純朴な自己というよりは、人にどのように見られるかという自意識の過剰現象や、他者のない仮想に入り込み、肥大した自我に変質していると思われるふしも見られる。
その意味において、現代の自我は、まるでテレビの中の人間と同一化し、バーチャルと現実との二重性が増していくようでもあり、自我の希薄現象や、自我飛躍も起こっていると思われる。伊藤正の作品は、バーチャル的世界の表現ではないが、このような現代の巨大な迷宮に迷い込んだ人間の複雑な自意識の存在を、装置的空間のなかで錯視的に捕まえ、その意識の不確かさにこそ現代人のレアリズムがあると教えてくれる。
そして、モニタ一の中にもう一つの現在を提出することによって、今ある現在と照応させ、自覚や認識できにくい存在論を、レトリックな装置で再認識させる発明的装置で演出する。
現代人の一日は江戸時代人の一年にも相当すると言った人がいるが、20世紀末の私たちの「自己と他者」の認識は、かっての人間のそれとは明らかに変容しているはずだ。伊藤は、そのモニター装置で変容していく現代人の自意識を、必死に、捕えて自覚させてくれる、マジシャンの一人である。