美術作家:山本耕一
伊藤正の作品は、 “正しい”。
会場に、目線の高さで並列させられたモニターが6台。画像は作者自身の頭部。しかし、一人のホモ・サピエンスという種の頭部を客観的に映し出したものではもちろんなく、そこに表出せんと試みられているものは、伊藤正という個の、「自己自身」であり「自我自身」である。
現実の展示空間には、並列されたモニター6台があるだけだが、モニターを通して見る「作品内空間」は、作者の自我を中心とした、シンメトリー宇宙となっている。
“宇宙” の中心に、定速で “自転” する作者(回転イスで自転したとのこと)が位置し、周囲を7台のモニターが等間隔で囲繞する。定位置に据えられたカメラによって撮られた “自転する作者頭部” の映像は7台のモニターに配信され、その画像がさらにカメラによって撮影されて配信され……。 結果として、現実の展示空間には、モニターをバックに自転する作者の頭部の映像が並列展示されることになる。右回転がモニター3台、左回転が同じく3台で、この作品宇宙では、現実の宇宙と異なって “パリティ保存則” は破られていない。
伊藤正は、名古屋を中心に、空間構成による発表を堅実に続けてきた作家であるが、ここ十年ほど、複数のモニターを使って作品空間を構成している(以前はコンクリートや木材を使用)。しかし、扱う素材にはよらず、その基本は<自我研究>の一言に尽きるように思われる。
「自分が宇宙の中心」……ではない、ということを、人は、社会における成長過程で、徹底的に思い知らされるのだけれども、にもかかわらず、やはり、自分は宇宙の中心である。なぜなら、自分の中に自分はいるのだから……。
そのような、理屈に合わない思いが、個としての人間の意識の中から死の瞬間まで抜けきらないものであるとするなら、人間の、いや、 “私” の自我の構造は、なぜそのようになっているのか……それを探求したいという衝動が、一連の「思想の系譜」を形作ったとしても、それは不思議なことではない。
伊藤正の作品を見る(体験する)たびに、私は、埴谷雄高の 『死霊』 という今では有名になった文学作品を想起する。伊藤正の作品は、ジャンルは違っても、この 『死霊』 が描こうとしている世界につながるものであり、自我探求の一連の系譜につらなる作品となっている。
「自分は、なぜ自分であるのか」 これは、永久に答えが出ないにもかかわらず永久に問い続けなければならないやっかいな問いである。この難問に、伊藤正の作品は、真正面から挑戦している。この文の冒頭に “正しい” と評したのは、この彼の、あくまで整合性を求めてやまない態度に関してである。
ここで問題になるのは、西欧合理主義思想における自我の問題と、我が国における自我の問題とは、軌を一にして論じることが難しいという点であろう。そして、この根底には、やはり言語の問題がある。
ヨーロッパ系の言語においては、 “私” は一人称単数(の主格)という、語尾屈折型の言語宇宙における明瞭な位置づけを持つけれども、日本語における “私” はそれに相当するような明晰性を持ち得ない。しかし、近代・現代の日本人の思想の枠組みは、その問題を遠くに置き去って、すでに西欧合理主義そのものと化している。そのため、日本における “自我の探求” は、より複雑な要因を抱え込まざるをえなくなる。
このあたりは、再三指摘されていることなので、今更の感はあるものの、指摘されているだけで、解決されたわけではない。したがって、この “自我の問題” 取り組むものは、やはり、自分なりの解決の道を、自分自身でさぐらねばならないという事情はあいかわらずである。
このような小文で、これ以上のことを論じるのは当然不可能であるし、筆者の力では無理でもある。したがって、ここでは、伊藤正の作品に関しては、美術という領域にとどまらず、思想・哲学・文学といった諸領域を横断する “自我探究” の系譜と連動させた “特別な研究” が必要であることを指摘し、かつ、将来、適任者によってそのような研究がなされることを待望するにとどめたい。