2007年7月30日〜8月11日 ウエストベスギャラリーコヅカ 名古屋
中年の男性の顔が大写しにされたカラーコピーが、入り口から展示スペースの奥に置かれたモニターに向かって、通路をつくるように左右に吊るされている。それらは訪れた者を歓迎するかのようにモニターへと導くものの、男の顔はどれも怒りや悲しみ、驚きや苛立ちに歪んでおり、同時に鑑賞者の進入を拒んでいるようでもある。中央のモニターにも、苦しみ喘ぐ同じ人物の顔が画面いっぱいに映し出されていた。こちらは固定したビデオカメラの前で腹筋でもしているのか、彼の顔が画面の下方から現れては下方へ消えるという動きが繰り返される。
この映像インスタレーション《Face》を制作した伊藤正の、作家としてのキャリアは長い。80年代前半から本格的に活動しはじめ、15年程は大がかりな立体作品を発表してきた彼だが、「それまでやってきたことを全部鍋に入れ、何が残るかと煮詰めていったら、全部蒸発してなくなってしまった。残ったのは、自分の体だけだった」と語る。以降、それまでの制作方法や材料から離れ、作品さえもすべて処分し、生身の身体に立ち返った作品を模索。2000年頃からは、自身の身体や行為を撮影した映像作品に取り組んできた。《Face》で百面相を披露しているのも、もちろん伊藤だ。
モニターの中の彼が繰り出す表情を見るうちに、大きく見開かれたその目には何が映り、その耳には何が聞こえているのだろうという思いが湧き上がった。たとえば、多くの地域住民の平和な暮らしを奪った震災や、政治家や企業の不正疑惑。あるいは、世界のそこかしこでいまなお続く紛争やテロ行為、HIVや飢餓で死んでいく人々。伊藤のまなざしの先に私が見たのは、こうした社会的事象だった。それらを私は自分に関わる問題として切実に捉えているだろうか? いや、どこか他人事のように感じていることを否めない。顔をグロテスクに歪めた伊藤は、自身の周囲で起きている現象を目や耳や皮膚という生身の身体を使って敏感に感じ取らなければならないと、その顔を言語にして私たちに伝えていた。
美術手帖 Gallery Review 田中由紀子